私の街 ~中野駅周辺
今日は、《終戦記念日》だった。
小泉総理大臣が九段の靖国神社に参拝したことが、各メディアで大きく報じられている。
この件に対しては、様々な意見や主張、考え、感想などが多くの人にあるかと思う。
私も思うこと、考えることがいろいろとあった。
しかし今回は《私の街》として、聞いた話ではあるが、戦前戦時の『中野駅周辺』のことを書いてみたい。
中野駅の北側、中野サンプラザの前の道は少し傾斜になっている。
中野サンプラザの横の中野通りも、わかりにくいかもしれないが、駅に向かって傾斜になっている。
中野駅北口前のロータリーやバス停も、よく見ると平地という感じではない。
(中野サンプラザ前の道)
(中野サンプラザ横の中野通り)
(中野駅北口ロータリー)
3枚目の写真を撮影した際の背中は、高台のようになっている。
その高さは、線路の高さより少し低いくらいだが、大目に見るとあまり差はない。
中野駅は“高架駅”のつくりになっている。
だが、よく見ると東中野駅側、高円寺駅側へそれぞれ進むと“高架線”ではない。
(さらに進むと高円寺駅方面は高架線になるが…)
北口も南口も駅前だけが線路より低くなっている。
中野区内は、高台と川により高低差のある土地柄ではあるが、駅前の高低差は自然なものではないらしい。
戦前のこと。
南北を行き来できるように、中野駅の下に道路を通す工事が行われた。
そのため、手前から少しずつ傾斜をつける工事が行われ、駅前も整備されたという。
ここまでは“ありそう”な話である。
しかし、私がこの話を聞いて驚いたことがある。
工事は、近くに住む人々の「勤労奉仕」によるものだったそうだ。
それが強制的なものだったのか?それとも違うものだったのかまではわからない。
この工事がいつ行われたかまで聞かなかったため、ここから先は想像になる。
中野には戦前、「陸軍中野学校」があった。
もし、この学校ができたころと時期と重なる話なら、当時の軍部からの要請による「勤労奉仕」だったのだろうか?
(現在の中野駅ガード)
中野駅の東中野寄りには、操車場がある。
中央線・総武線各駅停車用の車両が停まっている。
(中野駅1,2番戦ホームより撮影)
ここは戦前、大月、甲府など山梨方面へ伸びる中央本線の貨物の操車場だったそうだ。
私の母方の家族は昭和19,20年頃、代官山に住んでいたという。
昭和20年3月10日、後に『東京大空襲』と呼ばれる大空襲が東京の下町を襲った。
焼夷弾により、被害はとても大きなものになった。
その様子を見て、そのふた月ほど後に母の家族は山梨に疎開を決めたらしい。
出発に先立ち、持ち運ぶ家財道具を中野の貨物操車場に預けたそうだ。
しかし、ちょうどその頃に中野周辺も空襲にあう。
家財道具はすべて焼けてしまったという。
母は当時生まれたばかりで戦中の記憶はないそうだが、後に話を聞いたそうである。
中野は、やはり「陸軍学校」があったこともあり、標的になったのかもしれない。
3月から5月にかけての空襲で東京の50%が焼失したということである。
私の住む町でも、戦争に関わる出来事があった。
お読みいただいた方がお住まいの町でも、戦争に関わる出来事がきっとあると思う。
戦争があった時代と私たちの生きる現代は、つながっている。
私は戦争を体験として知らない。
それでも、話を聞いたり、書物を調べたりして当時のことを知ることはできる。
そして思う。
「戦争は悲しいものでしかない。もう起こしてはならない…」
私たちが次の世代へ紡がなくてはならない思いは、「平和の思い」であると私は信じる。
次回は、『第六中学校』を予定しています。
小泉総理大臣が九段の靖国神社に参拝したことが、各メディアで大きく報じられている。
この件に対しては、様々な意見や主張、考え、感想などが多くの人にあるかと思う。
私も思うこと、考えることがいろいろとあった。
しかし今回は《私の街》として、聞いた話ではあるが、戦前戦時の『中野駅周辺』のことを書いてみたい。
中野駅の北側、中野サンプラザの前の道は少し傾斜になっている。
中野サンプラザの横の中野通りも、わかりにくいかもしれないが、駅に向かって傾斜になっている。
中野駅北口前のロータリーやバス停も、よく見ると平地という感じではない。
(中野サンプラザ前の道)
(中野サンプラザ横の中野通り)
(中野駅北口ロータリー)
3枚目の写真を撮影した際の背中は、高台のようになっている。
その高さは、線路の高さより少し低いくらいだが、大目に見るとあまり差はない。
中野駅は“高架駅”のつくりになっている。
だが、よく見ると東中野駅側、高円寺駅側へそれぞれ進むと“高架線”ではない。
(さらに進むと高円寺駅方面は高架線になるが…)
北口も南口も駅前だけが線路より低くなっている。
中野区内は、高台と川により高低差のある土地柄ではあるが、駅前の高低差は自然なものではないらしい。
戦前のこと。
南北を行き来できるように、中野駅の下に道路を通す工事が行われた。
そのため、手前から少しずつ傾斜をつける工事が行われ、駅前も整備されたという。
ここまでは“ありそう”な話である。
しかし、私がこの話を聞いて驚いたことがある。
工事は、近くに住む人々の「勤労奉仕」によるものだったそうだ。
それが強制的なものだったのか?それとも違うものだったのかまではわからない。
この工事がいつ行われたかまで聞かなかったため、ここから先は想像になる。
中野には戦前、「陸軍中野学校」があった。
もし、この学校ができたころと時期と重なる話なら、当時の軍部からの要請による「勤労奉仕」だったのだろうか?
(現在の中野駅ガード)
中野駅の東中野寄りには、操車場がある。
中央線・総武線各駅停車用の車両が停まっている。
(中野駅1,2番戦ホームより撮影)
ここは戦前、大月、甲府など山梨方面へ伸びる中央本線の貨物の操車場だったそうだ。
私の母方の家族は昭和19,20年頃、代官山に住んでいたという。
昭和20年3月10日、後に『東京大空襲』と呼ばれる大空襲が東京の下町を襲った。
焼夷弾により、被害はとても大きなものになった。
その様子を見て、そのふた月ほど後に母の家族は山梨に疎開を決めたらしい。
出発に先立ち、持ち運ぶ家財道具を中野の貨物操車場に預けたそうだ。
しかし、ちょうどその頃に中野周辺も空襲にあう。
家財道具はすべて焼けてしまったという。
母は当時生まれたばかりで戦中の記憶はないそうだが、後に話を聞いたそうである。
中野は、やはり「陸軍学校」があったこともあり、標的になったのかもしれない。
3月から5月にかけての空襲で東京の50%が焼失したということである。
私の住む町でも、戦争に関わる出来事があった。
お読みいただいた方がお住まいの町でも、戦争に関わる出来事がきっとあると思う。
戦争があった時代と私たちの生きる現代は、つながっている。
私は戦争を体験として知らない。
それでも、話を聞いたり、書物を調べたりして当時のことを知ることはできる。
そして思う。
「戦争は悲しいものでしかない。もう起こしてはならない…」
私たちが次の世代へ紡がなくてはならない思いは、「平和の思い」であると私は信じる。
次回は、『第六中学校』を予定しています。





この記事へのコメント
昨日は終戦記日でしたね。
私が子供の頃、実家の近くに「防空壕」がありました。
母は一歳の姉をおぶってアメリカのB29の飛行機に追いかけながら銃撃されそうになりましたが、逃げおうせました。今思うにアメリカ兵は母親子を逃がしてくれたんではと思います。
父は海軍に所属し南の島で戦って胸を銃撃されても帰国しました。
叔父は(一人か二人)特攻隊志願して突撃して戦死しました。
そういう一般の人達がいたからこそ今があるんだと思います。
世界が平和でありますように・・・・
父は亡くなる数年前からフィリピンに戦没者の慰霊碑を作る計画をしてやり遂げてから亡くなりました(フィリピンには何回も行っていました)。
死ぬまで戦争体験から逃れられなかったようです。
好きに生きているように見れましたが・・・
戦争は人間を変えてしまうのかもしれません。
貴重なお話をありがとうございます。
とても厳粛に受け止めさせていただきました。
「世界が平和でありますように…」
私も本当に心からそう思います。